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武雄温泉駅と長崎駅とを結ぶ西九州新幹線が開業
博多駅(福岡県)と長崎駅とを結ぶ西九州新幹線のうち、武雄温泉駅(佐賀県)と長崎駅との間が9月23日に開業しました。両駅の間の距離は約66kmで、新幹線としては最短です。途中の諫早駅(長崎県)にしか停車しない、最も速い列車の乗車時間はわずか23分。これにより、博多駅(福岡県)と長崎駅は最短1時間20分で結ばれ、従来の在来線特急列車よりも30分短縮されました。
西九州新幹線は1973年に建設計画が決定された「整備新幹線」の一つです。当初の計画ではレールの幅が1435mmと広い新幹線と、1067mmと狭い在来線の両方を走れる「フリーゲージトレイン(軌間可変電車)」という車両を開発して、武雄温泉駅までは在来線を走らせ、そこから長崎駅までの間は、新たに建設した新幹線規格の路線を走らせる計画でしたが、技術的に難しいとして断念しました。
その結果、博多駅と長崎駅との間を移動するには、途中の武雄温泉駅で、在来線の特急列車「リレーかもめ」と、新幹線「かもめ」との乗り換えが必要になりました。それによって生じる不便を最小限にする工夫として取り入れられたのが、「対面乗り換え方式」です。武雄温泉駅の同じホーム上で、在来線特急列車と新幹線を乗り換えられるようにしました。
しかし、九州新幹線から枝分かれする新鳥栖駅(佐賀県)と武雄温泉駅との間の着工のめどは立っていません。佐賀県では建設に慎重な意見が強いからです。整備新幹線が開業すると、並行して走る在来線は原則としてJRの経営から分離されることになっています。その場合、沿線の自治体や民間企業が資金を出し合って設立した「第三セクター」の会社がその在来線の運行を引き継ぐケースがほとんどです。しかし、福岡県により近い佐賀県にとっては、新幹線が開業することによる所要時間短縮のメリットはそれほど大きくありません。そのため、新幹線の建設費に加えて、第三セクターの費用まで負担したくないという意見があるのです。こうしたことから、武雄温泉駅での乗り換えが必要な状態は長期化する恐れがあります。
1972年9月29日に国交を樹立日中国交正常化50周年
1972年9月29日、中華人民共和国(中国)の首都北京を訪れていた当時の田中角栄首相は、中国の周恩来首相と会談し、日中共同声明に署名しました。これにより、日本と中国との国交(国と国とが正式な関係を持つこと)が正常化されました。
日本は1931年、当時は「満州」と呼ばれていた中国の東北地方で満州事変を起こし、1937年には日中戦争を始めましたが、1945年に敗れて中国から撤退しました。すると今度は、満州事変前から始まっていたものの、日中戦争中は中断していた国民党と共産党との内戦が再燃します。勝ったのは共産党で、1949年に中華人民共和国の成立を宣言。一方、敗れた国民党は台湾に逃れて、引き続きそれまでの「中華民国」を名乗り、自分たちこそが中国を代表する政府だと主張し続けました。当初は日本を含む多くの国が台湾の中華民国を「中国」と認めていましたが、1971年に中華人民共和国が中華民国に代わって国際連合での代表権を得ると、国際的な流れが一変。中華人民共和国を「中国」とする国が増えていきます。日本と中華人民共和国とが国交を正常化した背景にはこうした動きがあったのです。
日本と中国との国交が正常化してからしばらくは、日中関係は基本的に良好でした。1972年に友好の印としてジャイアントパンダが中国から日本に贈られたことは、その象徴の一つといえます。
しかし、21世紀に入って経済力を大きく伸ばした中国は軍事力も強化しつつあります。中国は1970年代から沖縄県の石垣島の北に位置する日本の領土の尖閣諸島を自国の領土だと主張していましたが、近年ではその付近に中国の巡視船がたびたび接近し、緊張が高まるようになりました。
その一方で、2010年代は中国から来日する観光客が非常に多くなり、日本に良い印象を持つ人も増加したようです。また、市民レベルでの交流も盛んです。国交正常化50周年のこの機会に、日本と中国との関係のあり方について、もう一度考えてみてはどうでしょうか。
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