受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあ

さぴあは、進学教室サピックス小学部が発行し、内部生に配布している月刊誌です。

和田先生が語る灘校の真価

Vol.2

クラブ活動や行事を通じて
自分の可能性を広げ
興味のあることに幅広くチャレンジ

 中高の6年間は、子どもから大人へ、大きな成長を遂げる時期。本当に好きなことを見つけ、将来の進路のヒントを得るうえでも大切な期間です。将来の可能性を大きく広げるためにも、幅広くさまざまなことを経験し、周囲の仲間と助け合い、支え合うことも大事です。和田先生が、自身のクラブ活動や行事の思い出を振り返りながら、興味のあることに幅広くチャレンジできる環境の大切さを語ります。

文責=和田 孫博

中学時代に所属していた野球部に
着任後、顧問として復帰

和田 孫博

わだ まごひろ
灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会副理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。

 クラブ活動には思い出がたくさんあります。最初に入ったのは野球部でした。野球が好きだったので、小学生のころから「中学生になったら野球部に入るぞ」と楽しみにしていたのです。さっそく見学してみると、体は小さいのに大活躍している高校生の先輩がいて、その人にあこがれて入部しました。しかし、実際に入ってみると、体力もないし、肩の力もないし、周りの人たちに全然かなわないのです。結局、野球部は1年ほどでやめてしまいました。考えてみれば、わたしは「やる野球」より「見る野球」が好きなタイプだったようです。

 ただし、この話には後日譚があります。後に英語教師として母校に着任してみると、同級生が野球部のコーチとして一生懸命がんばってくれていました。彼は当時、大阪大学の医学部生だったのですが、勉強の合間をぬって後輩たちを指導してくれていたのです。

 かつて途中退部してしまったわたしは、その罪ほろぼしの思いも込めて、みずから願い出て野球部の顧問になりました。結局、それから退職までずっと野球部にかかわっていました。最初はノックもなかなか上手くできませんでしたが、がんばって練習したのでずいぶん上達しました。

 一方、文化部ではタイプの異なるクラブをいくつも掛け持ちして、精力的に活動しました。数学研究部では、あまりに優秀な部員が多いことに驚きました。自分では算数が得意だと思っていましたが、数学の研究となると、とても彼らについていけないのです。今でも「よくあんなメンバーと一緒に活動することができたな」と感心しますが、部誌に寄稿するのは楽しかったです。といっても、わたしの書く原稿は、「研究」というより、数学をネタにした変化球の内容でした。そういう意味でも、もともと理数系より文科系の能力のほうが高かったのかもしれません。

 地学研究部にも入りました。気象にとても興味があって、自分でも天気図を書いたりしていたので、将来は気象関連の仕事に就きたいという思いもありました。気象大学校への進学を真剣に考えたこともありましたが、いざ受験について調べてみると、物理と化学がどちらも必要だったのです。これでは文科系の自分は受験できない、と断念しました。

学校を超えたESSの活動が
英語教師の道につながった

高校野球部の監督時代の一枚。このチームは夏の大会で11年ぶりに1勝を挙げ、秋の県大会ではベスト16に入りました。当時の卒業アルバムより

 ESS(English Speaking Society)にも参加しました。わたしは英語教師になったので、結果的に、これが最も将来の進路に直結したクラブ活動ということになります。

 当時は近隣の学校のESSが参加する「阪神ESSユニオン」という横のつながりがあり、各校が持ち回りで英語討論会を企画したり、英語スピーチコンテストを開催したりするなど、他校との交流も盛んでした。ユニオンのプレジデントは選挙で選ぶのでわたしも立候補しましたが、残念ながら次点になって副プレジデントを務めました。このときに負けた相手が、実は現在の北九州市長の北橋健治さん(甲陽学院出身)です。当時から選挙には強かったのですね(笑)。

 今ほど「キャリア教育」は充実していませんでしたが、興味のあることには何でもチャレンジできる環境だったので、さまざまな可能性を検討できました。進路についてはあれこれ悩みましたが、最終的には京都大学の文学部に進むことになりました。実家は大阪で商売をしていましたから、両親としては経済学部に進んでほしかったようです。しかし、どうしても経済には興味が持てなくて、自分の希望を貫かせてもらったのです。

生徒たちの活動の集大成
文化祭はコロナ禍でも大成功

 学校行事はとても楽しかったし、いろいろな思い出があります。たとえば、体育祭は、競技面では目立った活躍はできませんでしたが、その分、立て看板を作ったり、それに絵を描いたりする裏方仕事は一生懸命やりました。

 一方、文化部を掛け持ちしていたので、文化祭は目の回る忙しさでした。特にESSでは英語劇を上演するので、セリフの練習もしなくてはならないし、脚本を書いたり、音響を整えたりと、準備も大変です。当時から、先生方は行事にほとんど関与しなかったので、生徒たちが自力で行事を作り上げなくてはなりません。

 今も昔も、生徒たちの生き生きとした活躍を最も間近で見ていただける行事が文化祭です。わたし自身も小学生のときに文化祭を見学して感動した記憶がありますし、在校生の多くが同じような思い出を共有しています。ところが、2020年以降は、新型コロナウイルスの感染拡大のために、行事の開催が非常に難しくなりました。

 一昨年はいったん文化祭が中止になりましたが、後日オンライン開催が実現し、多くの人に見ていただくことができました。昨年は生徒たちがさまざまに工夫して、「リアル×オンライン」のハイブリッド文化祭を見事に成功させました。何よりも生徒たち自身の「灘校をめざす小学生たちのためにも、きちんと開催したい」という思いが強く、密にならないようになど、実にさまざまな知恵を絞ってくれました。その工夫と努力は、本当にすばらしかったと思います。

 こうしたエピソードにも、校是である「精力善用」「自他共栄」が表れていると思います。みんなで協力し合った経験は一生の財産ですし、それができるのが本校の良さだと思っています。

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